歴史に名を残す経営者紹介

 現在は手を離れた鐵道事業ではありますが、創業以来当社の経営に携わっていただいた優秀な方々の功績を、皆様の記憶そして歴史に留めて頂きたく略歴を記録します。


■大川 平三郎 万延元年10月25日(1860年12月7日) - 1936年(昭和11年)12月30日
 「日本の製紙王」と呼ばれ、「大川財閥」を築いた。
 川越藩の剣客の次男として誕生。18歳のとき、叔父の渋沢栄一が創業した抄紙会社(王子製紙の前身)に入社。仕事熱心だった大川はアメリカ留学後日本初の木材によるパルプの製造に成功するなど日本の印刷業界に大きな功績を残す。その後独立して中央製紙、樺太工業などを創設する。当社設立にも発起人として参加し、以来亡くなるまで取締役を務めました。大川駅にその名を残しております。

■白石 元治郎 昭和5年12月〜昭和18年11月 鶴見臨港鐵道第二代社長
 1867年8月20日(慶応3年7月21日) - 1945年(昭和20年)12月24日)。日本鋼管の初代社長(1912-1921、1937-1942)。浅野総一郎の娘婿にあたる。 白河に生まれ、1892年に東京帝国大学法科大学を卒業すると浅野商店に入社し、東洋汽船の経営に参画するようになる。13,000トン級という当時は不可能と思われていた規模の船舶建造にも成功した。その後、全て輸入に頼っていた民需用鋼管を国産化することを模索していた帝大時代の学友で八幡製鉄所出身の技術者今泉嘉一郎(「日本の近代製鉄の父」「近代産業の父」と称される)に協力し、1912年日本鋼管株式会社を設立した。この頃、浅野総一郎の娘と結婚した。工場の建設は翌年のことで、場所は現在地と同じ川崎の現南渡田であった。ちなみに日本鋼管は日本初の民間製鉄会社とのこと。1931年開業の、武蔵白石駅は白石元治郎にちなんで名づけられた。1945年12月に病を得、同24日死去。享年79。 鶴見臨港鐵道においては創業以来取締役を務め、浅野總一郎亡きあと、昭和恐慌・太平洋戦争に向かう激動の時代に、戦時買収を完了するまで社長と務めました。

■渡邊 嘉一(わたなべ かいち)大正13年7月〜昭和2年 監査役
 1858年3月22日(安政5年2月8日) - 1932年12月4日
日本土木史の父と呼ばれる。信濃国上伊那郡朝日村(現・辰野町)生まれる。開智学校を経て上京し、工部大学校(現・東京大学工学部)予備校を経て、同大学校土木科に官費入学。1883年同校を首席で卒業後、工部省に技師として入省し鉄道局に勤務。
京阪電気鉄道、東京電気鉄道、奈良電気鉄道、京王電気軌道、北越鉄道、朝鮮中央鉄道(朝鮮鉄道の前身会社の一つ)、参宮鉄道などの経営に参画したほか、関西瓦斯社長、東京月島鉄工所社長、東洋電機製造社長などを歴任。54歳で東京石川島造船所(現・IHI)社長に就任。第7代帝国鉄道協会会長。

■関 毅(せき はたす)
 1886(明治19)〜 1939.11.3(昭和14)
栃木県出身。明治43(1910)年東京帝国大学土木工学科卒業。
大学卒業後、浅野總一郎が創設した東亜建設工業の前身である鶴見埋築(株)に入社。京浜工業地帯の埋立を指揮し基盤をつくる。また、東京湾埋立専務取締役として東京湾の埋立でも尽力した。鶴見臨港鐵道では大正13年10月主事を嘱託。昭和3年取締役、昭和4年常務取締役。昭和14年逝去。第1期工事から鉄道建設・運営全般に関わり多大な貢献をされました。享年53歳。同級生に台湾総督府で都市基盤整備に従事し、1930(S5)烏山頭(うさんとう)ダムと総延長1万6000キロに及ぶ用水路「嘉南大●(土へんに川)」(かなんたいしゅう)を指揮した八田與一技師がいる。八田とは生涯を通じて親友であり、烏山頭ダム設計の相談などにも乗っていたとされている。

■山田 胖(やまだ ゆたか) 昭和18年11月〜昭和22年11月 鶴見臨港鐵道第三代社長
 明治19年5月6日福岡県朝倉郡三輪村生まれ〜
明治43年東京帝国大学工科大学土木工学科卒業、逓信省技師となったが、大正6年高峰譲吉博士に引き抜かれ、アルミ二ウム製造用水力調査に従事。大正8年に東洋アルミナムが設立されると、建設担当重役となる。その後1921(大正10)年、東洋アルミナムは黒部鉄道株式会社を設立し、鉄道建設に着手。山田は鐵道會社、水力會社、温泉會社、東洋アルミニウムの取締役を兼務。黒部川電源開発の為には資材補給や従業員の厚生娯楽の基地として宇奈月の開発が重要であると開発に熱をそそぎ、大正12年には、無人の荒れ地であった桃原(今の宇奈月、桃原はウナヅキ平とも呼ばれていた)に温泉を引湯して、宇奈月温泉の基礎を築いた。その功績により「黒部開発の恩人」と呼ばれています。
 当社においても、大正15年12月、当社第二期建設工事で業務繁忙な中、理事を嘱託。昭和3年取締役、昭和4年常務取締役を務め、矢向線・大森線の設計に携わるなど当社鐵道事業の中核で大きく貢献頂きました。その後戦時買収では副社長の立場で調印式に立会い、戦時買収後の昭和18年11月社長となり、事業縮小、そして終戦直後の財閥解体など困難な時期に社長を務めました。その後昭和27年から昭和39年まで監査役を担いました。

■阿部 美樹志(あべ みきし) 1883年5月4日 - 1965年2月20日 建築設計士
 明治16年岩手県一関に生まれる。札幌農学校(北海道大学)土木工学科に入学。在学中に「港湾工学の父」と称された廣井 勇氏らの指導を受け最優秀の成績で卒業。鉄道院に入り、鉄道施設設計者として、東京−万世橋間の高架橋などを設計した。 明治44(1911)年農商務省海外練習生の鉄道海外研究生として、アメリカ、ドイツで鉄筋コンクリート工学を学ぶ。
 大正9(1920)年帰国後、阿部事務所を開設。阪急東宝グループの創業者である小林一三に見初められ、旧阪急梅田駅・阪急ビルディング、梅田阪急ビル(阪急百貨店)、阪急会館、阪急西宮スタジアム、東宝劇場、神戸阪急ビル、阪急三宮駅・三宮駅ビル、神戸高架橋、十三−梅田間の鉄道高架橋などを設計。 他にも、東京の日比谷映画劇場、有楽座の設計などが有名である。また竹中土木の初代社長になる。
 鶴見臨港鐵道においては、浅野總一郎の絶大な信頼を得て、鶴見川橋梁(六連アーチ橋)から国道駅を経て鶴見駅に至る高架橋の設計を担当しております。また昭和3年4月には鶴見臨港鐵道の駅ビルの設計図を作成。地上5階、地下1階の6階建てで中2階、屋上搭屋を含めれば九層の建築で、完成していれば高架で電車が入るターミナルビルとしては昭和8年の阪急三ノ宮につながる我が国で最も早い時期のターミナルビルであったとされております。当時の工事費予算で55万5千円。その年の当社の総収入が30万円余りということで、この議案は資金的な観点からか重役会で保留となりました。その後の昭和恐慌のあおりを受け昭和9年に完成した現駅ビルは規模が縮小され2階建になっております。