◆買収請願


 買収請願について、少し解説しますが、ほかのシートでも記載しておりますが、昭和7年10月12日:重役会決議「地方鐵道法による買収請願の件」で昭和5年以来利益が激減し、昭和7年5月末決算では遂に損失計上に至る。理由は世界恐慌による財界の不況が深刻化していることと、元来営業距離が短く、独立経営には不向きであり、貨客は大部分が省線に連絡するものだから省線が一体で経営した方が顧客にもメリットが大きいとされ、重役会決議禄では「当社は地方鐵道法に依る買収を請願し極力その実現を計ることに決す。」とされ、実際に昭和7年10月27日付で鐵道大臣宛て請願書が提出されております。
 少々理解難いですが、帝国議会においては、建議は議員からの意見を政府に伝達し、請願は国民(臣民)からの意見を議院の仲介により政府に伝達するものであり、ともに法令の改正や制定にとどまらない多種多様な問題を扱うことが可能であったとされてます。
なお、請願については、大日本帝国憲法において「日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」(第30 条)、「両議院ハ臣民ヨリ呈出スル請願書ヲ受クルコトヲ得」(第50 条)とあり、臣民の意思を伝える手段として規定されております。
 当社からの請願の一部を引用しますと以下の通り。


請 願 書     昭和七年十月二十七日提出


弊社ハ東京湾埋立株式會社経営ニ係ル鶴見川崎地先埋立地工業地帯ニ於ケル貨物運輸ヲ目的トシテ設立セラレ大正十五年三月濱川崎、辨天橋間及石油、大川両支線昭和三年八月濱川崎、扇町間ヲ敷設シ運輸営業ヲカイシ仕候

 爾後沿線ニ於テハ相踵イテ工場新設セラレ従テ出貨年々激増シ昭和四年ニ於テ既ニ總出入貨物七十四萬四千瓲内省線連帯七十四萬二千瓲ニ達シ候處當時工場建設中ノモノ及計画中ノモノ多ク出貨数量ハ更ニ増加スヘキ勢ヲ示シタルニ付キ弊社ニ於テモ之カ対策トシテ改良拡張ノ方法ヲ講究セサル可ラサル情勢ニ立到リ申候

 然ルニ御省線トノ連絡點濱川崎ハ峡隘ニシテ拡張ノ余地少ク将来ニ於テ多量ノ貨物連絡ヲナス場合ニ於テ円滑敏速ヲ期シ難ク寧ロ線路ヲ延長シ当時御建設中ナリシ御省線鶴見操車場ニ直接連絡スル方将来ニ対し万全ノ策ナル可キヲ察シ辨天橋ヨリ鶴見ヲ経テ新鶴見操車場ニ至ル線路ヲ建設シ又工場従業員及関係出入者交通ノ便ヲ図ル為全線ニ電車ヲ運転シ従来不便ナリシ御省沿線居住者ト埋立地内工場トノ連絡ヲ至便トスル計画ヲ樹テ昭和五年十月辨天橋鶴見間線路ヲ建設シ全線ニ亘リ電車運転ヲ開始シ埋立地帯内交通ノ利便ヲ増進シ計画ノ一部ヲ完了シタル次第ニ有之候

 弊社ノ計画ハ右ノ如ク遂行ノ緒ニツキ申候処当時急激ニ来襲シタル一般財界ノ不況ハ工場地帯ノ活躍ニ影響スル所頗ル大ニシテ爾後出貨数量ノ増加停頓シ加フルニ金融硬塞シ建設資金ノ供給意ノ如クナラサルニ至リタルヲ以テ計画ノ完了ヲ延期シ現今ニ於テハ専ラ営業ノ改善ニ意ヲ注キ景気回復ノ時期ヲ待チ居ルモノニ有之候

 然ルニ弊社線ハ営業距離極メテ短小ニシテ独立ノ経営ヲ継続致候事ハ経営上種々ノ不便アリ且冗費ヲ要スルコト多ク業績挙クルコト困難ニ有之且旅客貨物ハ大部分御省線ト連帯スルモノニ有之短小ノ区間ニ於テ別個ノ経営ヲナス為荷主及旅客ニ於テモ手続及運賃等ニ於テ不便不利ナル点少カラス若シ弊社線カ御省線ニ買収セラレ御省線ト一体トシテ経営セラルル事ニ相成候ハバ単ニ弊社線カ御省ノ営養線トシテ一層其機能ヲ発揮シ得ルニ至ルヘキノミナラズ荷主トシテモ運賃ノ低減配車ノ円滑等便益ヲ享クルコト少カラス延イテハ各工場ノ能率ヲ増進シ当地帯ノ繁栄ニ資スル所少カラスト存候

 弊社ニ於テハ当地帯内重要工場生産品及原料ノ御省線との連絡ニ就キ運輸ヲ敏速ニシ運賃其他費用逓減ニ関シ日夜焦慮経営罷在候ヘトモ何分ニモ線路短距離ニシテ経営意ニ任セス御省ニ於テ統一後経営ヲ悃願ノ次第ニ有之事情御賢察ノ上特別ノ御詮議ヲ以テ買収ノ件御聴許被成下度奉願上候


 上記記載の通り、開業当初計画していた神奈川県橘樹郡田島町附近に操車場を設置しようと企図したものが、県道及び海岸軌道線と交差する為、濱川崎で省線と連絡し貨物はスイッチバックで川崎まで運ぶほかなく、その為経費はかかるし、浜川崎は峡隘で拡張改良の余地がない。当時の昭和恐慌は埋立地企業への影響も甚大で出貨数量も停滞しており、金融が閉塞状態にあり建設資金の調達も困難な状況。客観的に考えると弊社線は距離短小であり独立した営業は困難。省線と一体で営業した場合の顧客の便益も改善するし、各工場の能率も改善するのは間違いない。といった分析で買収を請願しております。

 鶴見臨港鐵道物語の社史を総括しますと、特徴が3点に集約されるかと思います。

@ 当社の創業が後発であり資本の蓄積がなかったこと

A 鐵道事業が第一次世界大戦後、その後の世界恐慌、第二次世界大戦(大東亜戦争)に至るまでの戦間期であったこと

B 戦時買収の対価が現金ではなく換金できない登録公債であったこと

 @については大正末期の開業であり、財閥系や明治中期から開業した他社と比べて資本の蓄積が十分ではなく、他社のような不動産事業による収益もなかったので、純粋に鉄道事業で収益を確保するしかありませんが、収益拡大期にAの昭和恐慌に翻弄され資金調達も困難な状況であった。その後ジェットコースターのように戦時好況期を迎え、収益改善し資金調達も可能となったが同時に地価上昇や工場林立・近隣居住者の急増もあり、新線計画の多くの部分で高架が必要となり資金的にも実現困難な状況となりました。


 客観的に俯瞰すると、当社の創業時の信用は創業者とそれに続く経営者個々の信用補完により成り立っており、親会社である東京湾埋立鰍ゥらすれば用地売却による資金回収が最優先であり、株主である進出企業からすれば事業での利益確保が最優先ですので、どちらも昭和恐慌から短期間で鐵道事業新線建設のための巨額の追加出資に賛同するはずもありません。資金提供の後ろ盾となるような有力な金融機関も特に持たず、巨額の先行投資を必要とする鐵道事業をさらに推進するには関係者のコンセンサスを得るのが極めて困難な状況であったと思われます。つまり当社の事業は事業規模の小ささと恐慌による信用収縮と資本不足により新線建設が実現できなかったことで机上の計画は踊れど実現できないジレンマに陥っていた状況と言えます。そもそも浅野總一郎創業時に社名を「臨港鐵道」としたのは臨港以上の展開は困難であろうと見越していた、それゆえに進出企業を経営に取り込み埋立地内の鐵道事業に特化するように設えたのかもしれません。


 それでも経営者としては進出各企業と約束した最低限の鐵道事業はやり遂げ、また戦時買収で鐵道事業は国営化されましたが、その対価の額は当時としては出資者も満足する帰結であったと言えるものでした。

 「たられば」は尽きませんが、後世の者からすればせめて鐵道事業の買収ではなく、発行済株式の買い取りによる国有化であったなら戦後の返還も事務的には比較的容易であり、禍根を残すことは少なかったのではないかと思料します。

 これらが当社鐵道事業の歴史であります。