戦時買収 (敬称略)

調印式1 買収引継は副社長山田胖が代理人となる 引継目録鑑

創業から昭和18年5月末決算に至る総収入と当期利益・配当金の推移(半期決算) 出展:営業報告書

※昭和5年11月から昭和13年5月迄無配。昭和12年海岸軌道線撤去時に139万円の欠損金が生じ、減資により不良資産を一掃し早期復配を目指しました。

総資産・負債・資本想定推移(半期決算) 出展:営業報告書
※有利子負債には支払手形を含む。


※昭和16年6月の重役会資料では、今後2年間の所要資金を500万円(当時の資本金も500万円)とし、その内訳は借入金返済で190万円余、車両新造100万円余、改良工事120万円余、子会社(バス会社)増資引受60万円余としました。これに対する調達財源としては、借入が既に資本金に迫っていたこともあり、「倍額増資によって借入金の一部を整理し社礎を堅実に為さんとするものなり。」とあります。結果、昭和14年には380万円であった株金が昭和18年には800万円に達しました。戦時中でありながら収益好転と高配当の賜物であったと思われます。

<背景詳細> 当社創業の際、進出企業の利便改善の為、鉄道省に鉄道敷設を要請したものの叶わず、やむなく独力で創業した経緯があり、そもそも大正8年4月公布の地方鐵道法第30-36条で「政府買収」について規定されており、公益上必要と認めた場合は政府が私鉄を買収できるとされていました。
 日本の鉄道は明治5年9月の新橋-横浜駅間の開業以来、明治22年7月には東海道線が全線開通し、その後の大私鉄建設時代を経た後、当社は極めて後発の参入であり、創業(大正13年1924年)間もない昭和5年(1930年)にはアメリカ発の世界恐慌が日本に波及し、同年創業者である浅野總一郎が逝去すると金融面で困難な時代環境となり、借入金に経営者(取締役)の個人保証を付けざるを得ないなど苦悩の時代を迎えます。残念なことに稀代の大実業家である創業者が経営に携わったのは6年余りでした。また近隣の埋立地は国営の省線が鉄道を敷設して、不況に応じて貨物の運賃割引を行っていたものの、臨港扱貨物については適用されず、株主でもあり沿線企業である荷主からは強く値下げの要請を受けていました。

 当然ながら利益が確保できなければ企業として業容維持拡大できず、当社の場合は顧客であり株主でもある沿線企業の便益が最重要でしたので、利益の多くは内部留保よりも配当金として出資者に還元していました。
矢向線や大森線など新線を建設するには増資や鉄道建設財団担保などの借入等で調達するほかなく、戦争が激化する状況では極めて困難な経営環境にあったといえます。また一方で不採算の海岸電気軌道轄併時の債務引き継ぎと弁済及び鶴見川から省線鶴見駅乗入に至る連続高架工事、電化工事、一線増設工事及び車両購入など投資負担も重く、資金繰りは楽ではなかったと推察されます。

 戦前の当社の財務面を鑑みますと、現代のように金融機関から出資を頂く形態ではなく、沿線企業の活発な生産活動により利益を確保し、株主への高配当を実現、それにより沿線企業を含めた投資家から新規資金を調達して事業拡大再投資していくビジネスモデルであったように見受けられます。昭和5年11月から昭和13年5月にかけては、金融恐慌による沿線企業の業績悪化に伴い貨車輸送量の減少と運賃値下げ要請により無配となっていて、この期間は増資もままならず、海岸電気軌道鰍ニの合併と軌道線廃棄に伴う減資、鉄道・バス事業への投資資金の捻出も大変だったろうと推察されます。
 元来、鐵道事業は、期間収入に対して先行する投資が相対的に巨額であり、資本の蓄積もない一私企業が起業して独力経営するには無理があるように見受けられます。これを可能としたのは、まさに「浅野總一郎翁の卓見」であり、私利私欲のない事業の公益性かもしれません。

昭和7年10月12日
重役会決議「地方鐵道法による買収請願の件
 昭和5年以来利益が激減し、昭和7年5月末決算では遂に損失計上に至る。理由は財界の不況が深刻化していることと、元来営業距離が短く、独立経営には不向きであり、貨客は大部分が省線に連絡するものだから省線が一体で経営した方が顧客にもメリットが大きい。「当社は地方鐵道法に依る買収を請願し極力その実現を計ることに決す。」
 昭和5年11月から無配継続していて、一方で株主でもある荷主からは運賃値下げ要請を受け、利害調整が難しいジレンマに陥ります。
昭和15年10月
 鉄道線はその後も路線を延長し、昭和15年10月の浅野〜海芝浦間の営業開始により、営業路線総延長距離は12.1kmとなりました。
昭和17年12月14日
重役会決議「当社鉄道買収に関する鉄道省との契約に関する件
 鉄道省より地方鉄道法による買収交渉について、協定書案の内示を受け、これを締結することとしました。
昭和18年
 第二次世界大戦が激化するにつれ、沿線企業の生産活動が活発となり、貨客ともに激増し、収益も好転することとなります。
昭和18年には、濱川崎〜大森駅間及び鶴見〜矢向間の鉄道新線敷設免許を保有し、南部鉄道との接続計画を策定する等、外見上、当時の鉄道事業は益々発展の機運に見受けられました。
昭和18年7月1日
 国家総動員法(昭和13年)に基づき、1941年(昭和16年)に公布された改正陸運統制令によって、全鉄道営業区間が鉄道省に買収(約1,690万円)され、鐵道省鶴見線と改称されました。
 なお、当時の鐵道省との協定書案では「地方鐵道法第三十條以下の規定に依り」となっていて、社内文書等も地方鐵道法による買収とされています。商法上会社解散の事由発生したる理であるが、昭和18年5月26日付監財發第125号により所属鉄道引き渡し完了後も当分解散せず存続せしむるべきと示達があり、当分の間存続することとなりました。これは公債の市場分散を防ぐ為、戦時特別措置として公債保有の為会社存続を命じたとされております。

※戦時買収については評価は分かれますが、買収されていなければ敗戦に至る過程で、鉄道運行できない状況が暫く続き、収入激減すれば資金調達も弁済も困難になっていたと思われます。
 沿線工業地帯が軍需産業の重要拠点となっていて、国として買収して省線連携して運営するメリットがある路線であったことで、買収対価が戦時登録公債であったとはいえ、鉄道資産買収により従業員(昭和18年5月末在籍570名余)の多くを引き継いでもらえたことは、借入金の弁済と設備投資に懸かるファイナンスに疲弊していたであろう当時の経営者、及び省線となることで便益を享受できる沿線企業にとっても歓迎すべきことであったと思われます。なぜなら昭和18年11月30日の臨時株主総会にて、買収経過報告のあと、買収に伴い全役員に功労金贈呈の議案が満場一致で承認可決されています。その際の議事録の記載「政府買収による差益も相当出て居る次第…。」要するに、借入金相当(額面460万円)は国により直接金融機関に公債で返済され、残金(12百万円余)は公債で当社に支払われました(うち170万円相当は退職金等で無記名で換金可)ので、無借金会社になり総資産1千万円余が残ったということ。株金(資本金)800万円に対して1千万円以上の資産が残ったことになりますが、当時の1千万円は現在の価値に置き換えれば凡そ60億円余りとなります。
 ただし有価証券のうち額面11百万円相当が自由に資金化できないものでした(資金化を要する場合は鐵道大臣又は大蔵大臣宛て登録除却承認申請が必要)。
 その後存続を義務付けられた当社にとっては、公債の利子収入を主要な事業収益と考えていたものが、戦後のインフレで公債及び利子が相当目減りして、こんなはずではなかったと不満を抱いたことが想像されます。