新線計画と長期計画補足 



矢向線・大森線位置図


矢向線
 矢向線は、鶴見線が鶴見駅に連絡後、鉄道省にて工事中であった鶴見操車場(現 新川崎駅付近)に直接連絡する路線で、昭和2年3月8日付で線路敷設免許を申請しております。その後、昭和3年5月9日付重役会決議書で「鶴見線及び矢向線設計変更工事費予算増額承認の件」で議案となり、詳細見積を徴し改めて稟議に附することとされました。
 うち矢向線については、旧計画の125万円の予算が172万円と47万円の増額の見込みが提示され、その理由として、矢向線の計画線路が横浜市の都市計画道路と交差(現 鶴見駅西口入口)する為、その横断については高架橋とする必要があり、その結果鶴見駅から終点まで高架とすることが必要とされたことによります。
 工事費は40%弱増加するものの収入は高架下の貸室賃貸収入が増える程度ですので、金融面で苦しむ当時の状況では、用地取得を進める程度に留め置かれました。翻ってこの頃の用地取得が現在の当社の経営の礎となっております。

大森線
 大森線は、昭和2(1927)年7月26日付重役会で決定し、同27日出願を申請し、昭和4年6月29日付で免許状が下附されております。
重役会決議書記載を引用すると、
「濱川崎から六郷川を越えて羽田海岸から省線大森に至る線路は将来有望な線路として鉄道企業者の着眼するところとなるであろうから、予め地方鉄道敷設免許を出願致度。」とある。結論から言うと戦争激化する中で建設工事は実施できませんでしたが、設計図は作成され、工事費等詳細検討されており、興味深いのは現在の羽田空港を横断するルートを通過していることです。羽田空港が開港したのは1931年8月(当時は東京飛行場)、東京モノレール羽田空港線開業は1964年9月ですから、世が世であれば当社が羽田空港への連絡線を第一番に運営していたかもしれないというのは興味深く、当時の先達の慧眼には敬服すべきものがあります。

長期事業計画


 過去の重役会議決議録を閲覧して気づくのは、取扱貨物の運賃改定と「金融」に関する議事が多くみられることです。取扱貨物の運賃は沿線企業との交渉で難儀していたもので、金融については例えば昭和2年5月5日の「建設事業金融に関する件」に挟み込まれている資料には、「事業計画収支予想」とある(上記資料鑑)。内容は長期計画であり、将来の出貨予想、まだ実現もしていない旅客運輸の収入見込みを人口推移から予測し、事業の進捗に従い扇町線・鶴見線建設、その後の浜川崎-辨天橋間複線化工事、電化工事も見越して、将来は浜川崎から辨天橋間は3線とする必要があるとしてそうした工事費がいくらかかって、その資金調達をどのように為すか、損益計算から配当まで思案しております。しかも電卓もPCもない時代に。A4で十数ページの資料が残されております。結果的には金融恐慌もあり、計画と現実はかなりかい離しておりますが、常にこうした長期計画を構築しておくことが必要であったと推察します。
 技術的な鉄道敷設とそのコスト、そして収入予測、会計処理、税務そして金融など経営全般に通じた人物がこれらをまとめていたと思われます。現代でもなかなか長期計画を作成提示できる企業も少なくなったように思われますが、そういう優秀な人材がこの時代の当社には居たということ。古の鶴見臨港鐵道の痕跡が後世の人々を魅了するとしたら、そうした優秀な人材の煌めきと二十数年で散っていった儚さに魅せられるのかもしれません。